真我
二元論
二元論は思考力の怠惰である。二元論とは、例えば「善と悪」という様な一見相反するものに人間や世界を分断する見方。そのように、固着した見方をしてしまえば、そこで思考力は停滞する。あの人は「悪人」であるとか「善人」であるとか。何らかのレッテルを貼ってしまうとそれ以上考えようとしなくなる。白か黒か、陽か陰か、利益か損失か、YESかNOか、勝ちか負けか、成功か失敗か、合格か不合格か。絶えずあらゆる事象を二つに判断あるいは断罪しようとしている。この思考方法に陥るとトラップにはまる。現実の世界はそのようにはできてはいないからだ。二元論という単純化した思考方法では、本質を全く理解し得ない。100%の善人もいなければ100%の悪人も居ないのが現実世界。マーケットに当てはめると、上昇過程では必ず下落のエネルギーを蓄えてる。利が乗っている最中は、必ず損失のエネルギーも背後で増大しつつある。つまり、上昇と下落、あるいは利益と損失という二元論ではなく、融和した表裏一体により世界が構成されていることを悟ると、この世の情景が一変する。利益が増大しているときにはその背後で拡大しつつある損失を思い、損失が拡大しているときにはその背後で増大しつつある利益を思えば、二元論から脱却したバランス感覚を養うことができる。人間をはじめ、見えない背後こそが、その存在を支えている。表裏一体とは、その不可分性を表現しているのだ。卑近な例では、ポケットを見れば、表裏一体でないと存在しえないことが分かる。片方だけを取ろうとすると、存在そのものが消滅する。
http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=90003009&sid=aDQD6IP9ddjI&refer=jp_home
マーケットの名言
我々が真我を把握することができないのは、それが自然や肉体と混同されているからである。いちばん無智な人は、自分の肉体を真我だと思っている。少し学のある人は、自分の心を真我だと思っている。両方とも誤謬である。何故、真我がこういうものと混同されているかと言えば、様々な波動が心の湖の上に起こって、真我の姿を隠すからである。我々はこれらの波を通してしか真我を見ることができない。
ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda:1863-1902)
(解説)更に現代風に付け加えれば、次の様になる。人間の中でも最下層の人間は、自分の財産を自分の真我だと勘違いしている。彼らは妄想の狭間で翻弄されつつ、酔生夢死の如き一生を終えることになる。真我とは、文字通り「本当の自分」という意味。
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